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ハイペリオンとは?伝説の名馬ハイペリオンの歴史を振り返ります! [競馬]

かつて、サラブレッドの王と呼ばれたハイペリオン。
ハイペリオンは、父ゲーンズバラ(父の父バヤルド)、母セレーネ(母の父チョーサー)の間に1930年に誕生し、1960年にこの世を去りました。
今回は、この伝説の名馬ハイペリオンの歴史についてまとめました。



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●ダービー伯爵とランプタン閣下


サラブレッドの王と呼ばれ、ターフの父とも呼ばれたハイペリオンほど、その生が祝福され、逝去が惜しまれた動物は他にはいないのでないでしょうか。

ハイペリオンは第17代ダービー伯爵と、ダービー家の調教師ジョージ・ランプタン閣下が、長い期間をかけて育て上げてきた牝馬に生まれた芸術的な所産なのです。

すでにダービー伯は多くの名馬のオーナー・ブリーダーとしてイギリス競馬界に冠たる存在となっていました。

ランプタン調教師はダーラム伯爵の子息で、第16代ダービー伯に招かれてダービー家の調教師になると、カンタベリピリグリム・ロックアンドキー・アンカラといった良血牝馬を買い集め、チョーサー・スインフォード・キーストーン・ファラリス・ファウエーといった偉大な競走馬や種牡馬、繁殖牝馬を次々と生産しました。


ハイペリオンの曾祖母ゴンドレッドは特に成功した牝馬で、産駒にダービー馬サンソヴィノや1000ギニー馬フェリーを、孫には1000ギニーセントレジャーのトランキルやハイペリオンの母となるセレーネを出しました。

セレーネ(月の女神)はギリシャ神話ではヒュペリオーン(太陽の神)の娘なのですが、先にセレーネの名が与えられてしまったので、その仔にヒュペリオーンの英語読みであるハイペリオンとうい名前が付けられたようです。

●ハイペリオン誕生


セレーネは特に小柄な牝馬で、そのためクラシックレースに登録されませんでしたが、シェヴリーパークS、パークヒルSなど、1度の同着を含めて16勝しました。

そしてウッドランド牧場に戻ると、シックル・ファラモンド・ハンターズムーンといった後の名種牡馬を続けて生みました。

シックルはアメリカのリーディングサイヤーでネイティヴダンサー系の祖となり、ファラモンドはトムフール系の祖、ハンターズムーンは南米の大種牡馬として現在もメールラインを繁栄させています。

セレーネは5頭の牡駆を生んだ後、ファリラスを配合して空胎となり、翌年に3冠馬ゲーンズバラを配合して生まれたのがハイペリオンで、ソックスを履いたように白い四脚の栗毛という父にも母にも似ない毛色をしていました。

しかし、小ささは母親似で、上半身の頑強さや大きな頭は父のゲーンズバラに似ていました。


離乳期を迎えてもハイペリオンは際立って小さく、ウッドランド牧場では放牧地にアルゼンチン式といわれる屋根付きの飼料場を設けていて、仔馬はそこでいつでも乾草を食べられるようにしていました。

小さなハイペリオンはかいば桶に首を届かせるのが大変で、普段威張っているハイペリオンが首を突き上げて不自然な姿勢をとっていると、当歳仲間たちがこの時とばかりに攻撃をしかけてきました。


2歳の秋を迎えるとハイペリオンは馴致に入りました。

手慣れたウッドランド牧場のスタッフは次々と例年通りの馴致をこなしていきましたが、ハイペリオンの番になってランジングを始めると、のろのろと動いたり急に駆け出したりして全くいうことを聞きません。

そこで長ムチで胸を突くと、ハイペリオンは怒りをあきらかにくるりと身体をまわして後脚を蹴り上げ、その後は押しても引いても頑として動かなくなりました。

そのあまりの堂々とした威嚇にスタッフは自分の未熟さを叱られたように感じたそうです。

ハイペリオンは一方的に命令されることを嫌い、とりわけ自由を拘束されることを嫌がりました。

●初めてのレースは


冬になって本格的なトレーニングを開始する時期になっても、ハイペリオンは14.5ハンド(約147.3センチ)しかなく、子供の乗馬用のポニーにしか見えませんでした。

この時期にダービー家の服色でレースにでるものと淘汰されるものとが選別されることになっていましたが、ランプタン調教師はすでにハイペリオンの動きのすばらしさや意志の強さ、勇敢さにただものでない素質を認めており、むろん大きな期待とともにレースに向かうことになりました。


しかし調教を始めると、ハイペリオンはのらりくらりと走り、どうしても真面目に動こうとはしません。

これはレースに使って自分でその気になってもらうより仕方ないと考えたランプタン調教師は、5月とうい3歳戦の始まったばかりの時期にドンカスターのゼットランド未勝利プレートという5ハロンのレースに出走させました。

期待もしていないのでランプタン調教師はドンカスターへ行かなかったそうです。

事実、このレースでハイペリオンはろくでもない相手に4着と惨敗したのですが、確かにハイペリオンは競馬場の雰囲気や闘志をみなぎらせる他の馬たちから何かを感じ取ったようでした。

●ポテンシャルは見せたものの・・・


ハイペリオンの事実上のデビューは1か月後のロイヤルアスコットでの重賞ニューS(5ハロン)で、早くも名牝ナンスヴィルと対戦しました。

ハイペリオンはそのナンスヴィルに次ぐ2番人気となっており、ブックメーカーもこの馬の能力をよく知っていたものです。

そしてハイオエリオンはスタートから一気に飛ばし、ナンスヴィルに3馬身差をつけて楽勝しました。

後にハイペリオンはナンスヴィルの仔クラレンスとの間に偉大な牝馬サンチャリオットを出しています。


しかし、この後ハイペリオンは再び真面目に走らず、グッドウッドでのプリンス・オブ・ウエールズS(6ハロン)ではナンシーステアの無名牝馬(後にステアウエイと名付けられた)と同着となり、9月にニューマーケットで出走したボスコウェンS(5ハロン)でもマニトバという馬に大きく差をつけられた3着となっています。

どうやらハイペリオンにとって、これらのレースでは相手に不足があったようで、10月末のニューマーケットでの重賞デューハーストS(7ハロン)では途中までゆっくり走っていたものの、トミー・ウエンストン騎手が合図を送ると一気に加速し、たちまち先頭に抜け出してジェスモンドディーンに2馬身差をつけて勝利しました。

人気を集めていたアガ・カーン殿下のフェリシテイションは4着と大敗しています。



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●やがて芽生えた信頼関係


ハイペリオンは調教中も度々つむじを曲げて動かなくなりましたが、そんな時ランプタン調教師は決して強制したりせず、じっとハイペリオンの気持ちが変わるのを待ちました。

もともとハイペリオンは走り回るのが好きでしたので、やがて根負けしてランプタン調教師の指示に従うようになりました。

そしていつか、ハイペリオン自身がレースの楽しみを知り、またランプタン調教師を信頼するようになっていきました。


4歳を迎えたハイペリオンは距離の短い2000ギニーを捨て、チェスター・ヴェース(1.5マイル)を勝ってダービーに向かいました。

相変わらずハイペリオンは調教で走らなかったので、一時は2番人気に落ちてしまいましたが、最終的にはこの馬が調教で走らなくてもレースでは強いと考えられて1番人気を取り戻しました。

高齢のランプタン調教師は健康状態が思わしくなく、エプサム競馬場まで行くことができませんでしたが、ハイペリオンが勝つための十分な準備を整えました。

つまりハイペリオンのペースメーカーとしてスラプストンという馬を出走させ、スラプストンにはダービーを4度勝っている名騎手スティーヴ・ドナハー氏に乗ってもらいました。

ドナハー騎手はダービーコースを熟知しており、適切なペースを保ちながら先行し、ハイペリオンとウエンストン騎手はスラプストンについていくだけでよかったのです。

タテナムコーナーではドナハー騎手がインコースを開けて曲がったので、ハイペリオンはそこに入ってスラプストンに並びかけます。

そして直線で抜け出すと、追い上げるキングサーモンとの差を開いていき、4馬身差をつけて2分34秒0のレコードタイムで圧勝しました。


ハイペリオンはアスコットでのプリンス・オブ・ウエールズS(1マイル5ハロン)も楽勝しましたが、7月になったある日、後脚を跛行しているのがわかりました。

そのため8月に予定していたレースを取り止めると、ハイペリオンが故障したと大きな話題となり、セントレジャーでのハイペリオンの早期馬券のオッズは一気に高くなりました。

どうやら厩舎で寝違えただけの軽い関節の痛みだったようですが、すでに過去のサラブレッドには見られなかったほどの人気を得ていましたので、わずかなことでも大きな噂を呼ぶようになっていました。

ハイペリオンが元気にセントレジャーに出走すると、たちまち6対4という圧倒的人気にまで高騰し、ハイペリオンは何としてでも勝たなければならない責任を負わされました。
この時もハイランダーというペースメーカーを出走させていましたが、能力的に少し不足があってハイペリオンを先導するまでもなくばててしまいました。

しかも他の馬はすべてハイペリオンより先に行こうとせず、ハイペリオンは3000メートル近い距離を先行しなければならなかったのです。

しかし、ハイペリオンはドンカスターの広々とした野を楽しげに走り抜け、勝負にかかってもフェリシテイションを3馬身以上近づけることなく逃げ切りました。

●馬は友、友は厳しく


ダービー卿はすでに身体の弱っているランプタン調教師に対して、このハイペリオンの勝利を花道に引退するように申し渡しました。

ランプタン調教師は競馬から離れたくなかったので拒否し、ダービー家の調教師をやめてからも他のオーナーの馬のトレーナーとして現役に残りましたが、おそらくダービー卿自身は先代からの大功労者に楽な隠居生活で長生きしてもらいたかったのではないでしょうか。

ですが、貴族として育ちながら、若い頃から馬を最大の友として生きてきたランプタン調教師が馬と離れることの意味は、いかに生涯の親友だったダービー卿にも理解してもらえなかったようです。


ランプタン閣下の後を継いだコリッジ・リーダー調教師はすぐれた手腕の持ち主であったものの、偉大なランプタン閣下の後では少々荷が重かったようです。

ハイペリオンはリーダー調教師に強く反抗し、5歳になって出走したマーチS(1.25マイル)ではアンジェリコにクビ差で勝ち、続くバーウエルSではキングサーモンの4分の3馬身差をつけて勝ちましたが、アスコットでのゴールドCでは宿敵フェリシテイションとフランスのトールに大差をつけられた3着となっています。

リーダー調教師はランプタン閣下の方法を習って、ハイペリオンに調教を強制したりはしませんでしたが、むしろこの馬に対して甘すぎたといわれ、ハイペリオンが根負けするまで待って、それでも運動をさせるというような本気の戦いをすることがありませんでした。

いわばハイペリオンはリーダー調教師をなめてかかっていたようです。

●サラブレッドの王といわれたゆえん


ハイペリオンはさらに2頭立てのダーリンガムSでも4歳馬のケイネスに負け、それを最後に引退しました。

計13戦9勝という成績もすばらしいものでありますが、戦績だけいえばイギリスの競馬史にはさらにすごい馬がいくらでもいます。

ですが、こうしたハイペリオンの経歴を知ると、なぜハイペリオンがイギリス競馬史において特別な存在となり、サラブレッドの王とまでいわれるようになったかはおわかりいただけるものと思います。

有史以前より人は馬とともに生き、馬とともに文明を育ててきましたが、騎馬によって世界を駆け回った人々は馬を生きた道具として大切に扱いました。

騎馬民族にとって馬は自身の生存にかかわる重要な存在でしたので、人に絶対的な服従を要求し、そのための調教技術を発展させました。

一方騎馬の習慣の発達しなかったイギリス人やフランス人のような農耕民族は、近代に入ってから競馬のようなスポーツを通じて馬と親しむようになり、馬に強い愛情と敬服の念を注ぎ、馬を友として考えるようになりました。

そうした環境で育ったサラブレッドには、自然と人に対する接し方の異なった面が発達してきます。

ハイペリオンのような頑固に自己主張する馬は騎馬民族には無用の存在となったかもしれません。

ですが、スポーツにおいてはこうした馬とともにダービーのようなレースを勝てることが一層の喜びとなります。

ハイペリオンはそうしたイギリス人の馬への愛情を正しく反映した存在として、その聡明さ、勇敢さが大きな共感を与えてきたのではないでしょうか。

●そして銅像が残る


ハイペリオンは種牡馬として大成功し、6度リーディングサイヤーとなりました。

十分に成長してからもノーザンダンサーよりもさらに小さく、15.15ハンド(約153.9センチ)程度のままでしたが、この馬の賢さ、気丈さ、頑固さは後のサラブレッドに強く伝わり、いつかサラブレッドは誇り高く、聡明な動物としてだれにも知られるようになりました。

種牡馬時代のハイペリオンは訪問者をとても好み、常に愛想良く出迎えました。

一頭だけの時は集まってきた鳥と遊んだり、上空を飛行機が飛ぶとじっとみつめていたりしました。

普通の馬は頭上にあまり関心を示さないものですし、頭上に何かがやってくると怖がるものです。

ハイペリオンは17代ダービー卿もランプタン閣下も逝去し、イギリスが第2次世界大戦に勝利し、経済的な没落の始まる1960年まで生きました。


第18代ダービー伯爵は12歳の時に祖父とランプタン閣下とともに2歳のハイペリオンを見て以来、ずっとこの馬と付き合ってきました。

徴兵局長官、戦争担当大臣として大英帝国の存亡を担ってきた祖父のダービー卿と付き合える時間は多くなかったのですが、ハイペリオンを常に祖父の代わりのようにみつめてきました。


31歳を迎えたハイペリオンのために屋根付きの放牧地をつくると、ハイペリオンはまだまだ元気一杯に走り回っていました。

しかし、寒さの到来とともにハイペリオンは急に弱りだし、たちまち呼吸困難に陥っていきました。

ダービー伯はその姿を見ていることができず、館に閉じこもっていましたが、間もなく息を引き取ったことを告げられました。

ダービー伯は感謝の意を告げ、ウインストン・チャーチル卿の来訪時に開けたブランデーをみんなで飲みました。

そしてウッドランド牧場にハイペリオンの巨大な銅像を建てました。

●まとめ


以上が、伝説の名馬ハイペリオンの歴史についてでした。

ちなみに、ハイペリオンの代表産駒には、オリオール・サンチャリオット・オウエンデューダー・サンスカル・ゴディヴァ・サンストリーム・ハイペリカム・ハイシラ・ペンシヴ・ハイステークス・ハイオポリスなどがいます。

一時代を築いたハイペリオン系ですが、現在では数が少なくなってきています。



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