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伝説の名馬ノーザンダンサーとは?その歴史を紐解きます! [競馬]

ノーザンダンサー系と聞けば、競馬ファンであれば多く耳にしていると思います。
ノーザンダンサーは、父ニアークティック(父の父ネアルコ)、母ナタルマ(母の父ネイティヴダンサー)の間に1961年に誕生し、1990年にこの世を去りました。
今回は、この伝説の名馬ノーザンダンサーの歴史についてまとめました。



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●雪と氷の国カナダ


カナダはアメリカ合衆国やオーストラリアとほぼ同じころに近代競馬を始めた国で、カナダのダービーにあたるクインズ・プレート(当時のキングズ・プレート)はオーストラリアのビクトリア・ダービーの5年後、アメリカのベルモントS(最も歴史の古いクラシック)よりも7年先立って創設されています。

にもかかわらず、カナダからはカーバインやマンノウォーのような世界競馬に重要な影響を与えるサラブレッドは長く出現することがありませんでした。

競馬そのものは盛んで、オーストラリアと同じように小さな町にも競馬場があり、都市でも田舎でも競馬が人々の最大の楽しみとなっていました。

しかし、カナダという国家が長く世界史に大きな役割を果たすことがなかったのと同じように、カナダ競馬もまたあくまでもカナダの人々のために楽しみを提供するだけの存在でしかありませんでした。

●カナダ競馬変革の立役者


そんなカナダ競馬を大きく変え、カナダから世界で最も重要なサラブレッドを送り出したのは、20世紀が始まって29日目にオタワで生まれたエドワード・プランケット・テイラー氏です。

名門家庭の出身で上流社会に育ったテイラー氏はマッギル大学に在学中からすぐれた才能を発揮し、両面焼きトースターの発明によって早くも自活できるほどになっていました。

ですが、大学を卒業するとあっさり工学の道を捨てて実業界に入り、さまざまな事業に次々とかかわっていくのです。

大不況の到来はむしろテイラー氏にとって大きなチャンスとなり、倒産寸前の小さなビール醸造所を次々と買収していって、合併吸収によってカナディアン・ブリュワリー社を育て上げました。

第2次大戦中にはイギリスへの軍事物資供給のために、カナダ財界のリーダーとして尽力し、ウインストン・チャーチル卿から北米補給協会の会長に任命されています。


戦後はイギリスやアメリカでもビール醸造所を買収していって世界的大企業に発展させ、それらビール会社を含むカナダ最大の企業グループとしてアルガス社を3人の大物財界人とともに創設しました。

政治的にもマクミラン首相とともにアメリカのケネディ大統領をバハマの別荘に招いて国際人としての加英、加米関係改善につとめ、文化的にもトロントの美術館を初め、多くの科学研究所や大学に多額の援助をして今日の大国としてのカナダを育てる上で大きな役割を果たしました。

●生産活動の始まり


そんな北米の巨人テイラー氏が生涯最も大きな情熱を傾けたのが競馬と馬産です。

カナダの競馬はケベック州の独立運動にともなうイギリス離れによって、戦後はむしろ衰退に向かっており、後にケベック州では完全に競馬が消え去ってしまいます。

それ以上にカナダの寒さと群小競馬場の乱立がカナダの競馬の発展を妨げていたのです。

テイラー氏の友人たちの多くも競馬が好きだったのですが、雪と氷の国カナダで世界に通用する馬など生産できるわけがないと考えていたし、カナダ競馬は現状を守る以上の発展の余地がないと認めていました。

しかし、テイラー氏は競馬と馬産が大きな楽しみを提供してくれるだけでなく、事業としても成り立つと信じて、1936年にコスグレイヴ・ステイブルの名義で馬を持つようになり、間もなくトロント近郊にナショナル・スタッドを買って本格的な生産活動に入りました。

●カナダ競馬の発展の序章


カナダ競馬振興のためには長期間開催できるダートコースによるウッドバイン競馬場の建設運動をすすめ、1957年に完成すると、それまでの地方分散型の競馬からウッドバインを中心としたオンタリオ州集権型の競馬に改革し、その成功よってカナダ競馬を大きく発展させました。

馬産の面では1943年に生産したウインドフィールズが4歳時にドワイヤーHで名馬アサールトの2着となったことで、カナダ産馬がアメリカ馬に対抗できると確信し、コスグレイヴ・ステイブルとナショナル・スタッドをウインドフィールズ牧場と改名、良血馬を求めてイギリスやアメリカのセリに参加するようになりました。

ウインドフィールズの名はこの牧場を吹き抜けるすさまじい風に、そのような逆境から名馬を育てたいと考えてつけたといわれています。

●ノーザンダンサーの父ニアークティックの誕生


1952年のニューマーケット・デッセンバー・セールにおいて、テイラー氏はネアルコの仔を胎内に宿しているレディアンジェラを1万500ギニーという高値で買いました。

しかし、テイラー氏はいかなる良血馬も一度のチャンスで名馬を出すとは限らないと考えて、この牝馬の売り主の代理人であり、ネアルコの輸入主でもあるマーティン・ベンスン氏に、次の年もネアルコを配合させてほしいと申し出ました。

ベンスン氏は当時イギリスで貴重な存在だったUSドルで代金を支払うということでこの条件に応じました。

テイラー氏の予測は的中しレディアンジェラの胎内にいたネアルコ産駒は全くよいところがなかったのですが、次の年にネアルコを配合してウインドフィールズ牧場で生まれた牡駒はすばらしいできだったのです。


テイラー氏は馬産をビジネスとして成り立たせたいと考えていたので、ウイドフィールズ牧場の生産馬はすべて希望があれば売ることにしていました。

それも価格をテイラー氏自身が決め、その値で買う人がいなければ自分の持ち馬として競馬に使っていました。

レディアンジェラがカナダに持ち込んだネアルコの牡駒は3万5000ドルという高値がつけられて恒例のウインドフィールズ・セールに出ましたが当時はカナダのオーナーしか買いにくることもなかったので、そんな高い馬に手を出す人はなく、ニアークティック(カナダの極北生物圏)の名でテイラー氏の服色でレースに出走することになりました。

ニアークティックは47戦21勝し、ジャック・カルティエSなどカナダの多くの大レースのみならず、アメリカでもサラトガ・スペシャル、ミシガン・マイルといった当時の最上級レースに勝ち、後にはウインドフィールズ牧場の種牡馬として大成功しました。

●ノーザンダンサーの母ナタルマとは


1958年にテイラー氏はサラトガ・セールでネイティヴダンサー産駒の良血2歳牝馬を3万5000ドルで買いました。

この馬はナタルマ(生みの親というような意味でしょうか)の名でアメリカの大調教師オラティオ・ルロ氏に預けられ、3歳時はスピナウエイSで1着入線し、インターフェアによって、3着降着となりました。

4歳になるとケンタッキー・オークスを目指しましたが、調教中に膝のカルシウム沈着が生じ、手術を受けて引退せざるを得なくなりました。

しかし、すでに繁殖シーズンは終わりかけており、配合種牡馬を選択する余地はありませんでした。

その年からニアークティックが種牡馬としてウインドフィールズ牧場に戻ってきていたので、ナタルマはニアークティックの初年度交配の最後の牝馬になりました。

●ノーザンダンサー誕生


翌年ナタルマは牡駒を出産しましたが、なにぶんにも5月末という遅生まれなので成長が遅れ、ウインドフィールズ牧場のセール時期になっても目立って小さな馬でした。

しかし、テイラー氏はこの馬を高く評価していたので2万5000ドルというびっくりするような値段をつけていました。

この年のアメリカでのイヤリング平均価格が5500ドルぐらいで、キーンランドでも5万ドルを超える馬は数えるほどしかいなかったのですから、誰もそんなちっぽけな馬を買おうとしなかったのは当然だと思われます。

その小さな馬は母の父ネイティヴダンサーと父ニアークティックとの結び付きでノーザンダンサーという名前を与えられ、E・P・テイラー氏の持ち馬としてルロ調教師に預けられました。

ルロ調教師はこの馬がもう少し発育してくれることを期待して3歳8月までレースに使いませんでしたが、ノーザンダンサーはついに体高15.2(約154.4センチ)ハンドという小柄なまま生涯を送りました。


ノーザンダンサーとともに後の生産界に大きな影響を残したレイズアネイティヴも同じ年の生まれでしたが、ノーザンダンサーがデビューする時にはすでに4戦全勝で引退してしまっていました。



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●激戦のケンタッキー・ダービー


ノーザンダンサーはフォートエリーでデビューして未勝利戦を楽勝し、2戦目のヴァンダルSではランブリンロードの2着に敗退しました。

3戦目は芝コースでのサマーSで、ノーザンダンサーは楽に逃げ切りましたが、続くウッドバインの芝コースでのカップ・アンド・ソーサーSでは、テイラー氏が生産したグランドガーコンという馬に負けてしまいました。

しかし、ダートでのアローワンスに勝ち、カナダ最大の3歳戦コロネーション・フェチュリティでもジャメドライヴリーに6馬身差をつけて圧勝しました。

グリーンウッドの不良馬場でカールトンSにも勝ってニューヨークに赴き、アケダクトのアローワンスでは一流馬ブパースに8馬身差つけて勝ちました。

さらにレムセンSでも12ポンド(約5.4キロ)差を与えたロードデートらを負かし、アメリカ合衆国でも将来を最も期待される3歳馬の一頭となりました。


この後ノーザンダンサーの前脚に裂蹄が生じたので、ルロ調教師はジョージア州の自分の牧場で治療しました。

4歳を迎えて冬のフロリダ競馬に向かうと、ハイアリアのアローワンスで騎手のミスによって3着となり、フラミンゴSではシューメーカー騎手が乗ってミスターブリック、ブパースらを相手に快勝しました。

続いてガルフストリームでのアローワンスを楽勝し、フロリダ・ダービーも楽な相手にー馬身差で勝ちました。

この後ケンタッキー・ダービーに乗り込みますが、シューメーカー騎手はカリフォルニアから来たヒルライズを選びノーザンダンサーは、ヴェネチアンウエイ・デサイドリーで2年連続ダービーを勝っているウイリアム・ハトリック騎手と最終的なコンビを組むことになりました。

ハトリック騎手とともにブルーグラスSを勝って、ヒルライズに次ぐ2番人気で出たケンタッキー・ダービーは歴史的な激戦となります。

ロイヤルシャック、ミスターブリックらが入れ代わってハイペースで逃げるのを有力馬が追いかけ、ノーザンダンサーはザスカウンドレルとともに第3コーナーで先頭に抜け出し、直線にかかると一気にザスカウンドレルを突き放しました。

そして単独で向かおうとすると、シューメーカー騎手のヒルライズがぐんぐん迫ってきます。

ハトリック騎手は激しくムチを使い、シューメーカー騎手も力任せに追いつづけます。

ヒルライズが首差まで迫ったとき、ノーザンダンサーはゴールラインに救われるように逃げ切りました。

激しいレースによって同じルロ調教師、ハトリック騎手によるデサイドリーのレコードを破って2分フラットという素晴らしいタイムを残したのです。

このレコードは1973年のセクレタリアトまで更新されることはありませんでした。



●ノーザンダンサーの引退


むろんカナダ産馬がケンタッキー・ダービーに勝ったのは初めてのことでした。

過去にイギリス産馬がアメリカ人に買われてきて、アメリカでレースをしていた馬が勝ったことはありました。

また、後にアメリカ産馬カノネロがベネズエラから戻ってきて勝っています。

しかし、ノーザンダンサーのように純粋な外国馬がケンタッキー・ダービーを勝利したのは快挙だったのです。

レース後、シューメーカー騎手の仕掛けが遅れたためにヒルライズが負けたといわれましたが、プリネークスSのノーザンダンサーはさらに楽に勝ち、ヒルライズはザスカウンドレルにも負けて3着に終わっています。

しかし、ベルモントSではノーザンダンサーがクォドラングルにつかまり、ロマンブラザーにも抜かれて3着に落ちました。

それが1.5マイルという距離のせいか、疲労のせいか、クォドラングルが強かったせいかはわかりませんが、それぞれに多少の影響を与えての敗戦だったのだと思われます。

ノーザンダンサーはカナダに凱旋し、クインズ・プレートを大独走で勝ちました。

そして10日後には屈腱炎による腫れを発生させたため、引退してウインドフィールズ牧場にいきました。

●サラブレッドの歴史を変えた種牡馬


種牡馬となった当初はノーザンダンサーがさほど大きく注目されていたわけではありません。

ですが2年目の産駒ニジンスキーがイギリスで3冠馬となると、ニジンスキーを調教したヴィンセント・オブライエン調教師に大きな評価を受けて、ロバート・サングスター氏ら世界的なオーナーが競ってノーザンダンサー産駒を求めるようになりました。

ノーザンダンサー産駒はそうした期待に十分に応え、それによってノーザンダンサー産駒はサラブレッドの市場価格を大きく高騰させました。

普通は高馬がその価格どおりに走ることが多くないのですが、ノーザンダンサー産駒だけは違っていたのです。

良血馬がそのまますぐれた競走成績を残し、すぐれた競走馬がそのまま大種牡馬となりました。

ノーザンダンサー産駒は世界各地に散らばっていったにもかかわらず、イギリスと北米のリーディングサイヤーとなり、その仔にも次々と世界各地のリーディングサイヤーが出現しました。

このようなタイプの種牡馬は長いサラブレッドの歴史にも登場したことはなく、ノーザンダンサーはサラブレッドをノーザンダンサー種ともいうべき新たな種に変えてしまったといわれるほどのものでした。


ノーザンダンサーはスピード血統にスタミナを与え、ステイヤー血統にスピードを与えたので、それまでのような典型的なスプリンター血統や典型的な長距離血統というものをなくしてしまったのです。

ノーザンダンサー産駒の成功するものの多くはノーザンダンサーと同じ15.2ハンド(約154.4センチ)という小型馬だったため、サラブレッドを19世紀のサイズに戻してしまいました。

ノーザンダンサーはサラブレッドを我慢強く、順応性が高く、健康で力強いものに変えてしまったのです。

順応性の高さという点では、この馬がカナダという異郷で育ったサラブレッドであったことと無関係ではないような気がします。

●ノーザンダンサーの生涯


ノーザンダンサーがケンタッキー・ダービーに勝った翌年、カナダは新しい国旗を制定し、さらに2年後のモントリオール万博、そしてオリンピック、サミットと続く国際舞台で大きな役割果たすようになっていきます。

テイラー氏はメリーランドに牧場を買って、ノーザンダンサーをシンジケート種牡馬としてアメリカに移し、生産馬もアメリカのセリで売るようになったのですが、ノーザンダンサーが高齢になるとカナダのウインドフィールズ牧場に戻しました。

テイラー氏は第二の故郷として独立にも貢献したバハマで晩年を過ごし、88歳の高齢で逝去しました。

ノーザンダンサーもまた馬としては最高齢に属する30歳まで生き、テイラー氏逝去の翌年、主人を追うようにこの世を去っていきました。

●まとめ


以上が、伝説の名馬ノーザンダンサーの歴史についてでした。

ちなみに、ノーザンダンサーの代表産駒には、ニジンスキー・セクレト・サドラーズウェルズ・リファール・ノーザンテースト・ヌレイエフ・ストームバード・ヴァイスリージェントなどがいます。

凄いですね!

そうそうたるメンバーです。

ノーザンダンサーが競馬界の残した功績は計り知れないものがあります。



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